彦根は井伊氏の居城で、関ヶ原合戦後、井伊直政は上州箕輪の十二万石から慶長五年十二月に佐和山城に十八万石として移封された。しかし何かと不便もあって、間もなく近く西北に当たる磯山に城地を移したのである。直政は慶長七年二月に四十二歳で卒し、続いて一子直継(後に直勝と改める)が十三歳で後を継ぎ築城に掛かったのである。奉行に山城宮内少輔忠久、佐久間河内守政実、犬塚平右衛門等を命じ、役夫は伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前七カ国における十二大名に命じて徳川家自ら大いに援助したのであった。慶長八年八月から着工し、十一年に天守が完成し、十九年になって直継痼疾のため直孝が後を継いだ。間もなく大阪の役や、元和元年(1615年)の役で戦功があって六月に六万石の加増があり、また、元和五年には、五万石が加増され、寛永二年(1625年)には大老職に進み、十一年七月には総高三十五万石の大名となった。
当園は蓬莱式(注)で、彦根市金亀町にあって、しかも、玄宮園と称せられているから、井伊家の長寿延年に因んで亀に名をとり、金亀と称し、玄宮と呼んだと思われる。
当園が何時頃着手し、完成したかは文献に見るものがないが、元和七、八年から着手され、寛永初年に完成したものと推定する事ができる。この玄宮園が造営された元和末年の例をとると、京都の桂離宮庭園があり広島の泉邸がある。それらのものと地割を比較すると、誠によく似ているものがあって、この頃の時代的傾向が見
られる。
(注)この時代の庭園から寛永期にかけてのものは大池泉庭園を廻遊式と舟遊式を兼ねたものとし、さらに、子孫繁栄を祈って長寿延年を意味する蓬莱式の池庭とした。
上記の文章は茶道雑誌中の重森三玲氏による庭園歴覧抄第三十八回より抜粋、参照したものである。
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